創立記念礼拝によせて――「逃げ場(アジール)」としての東洋英和


東洋英和女学院大学では、毎週、大学礼拝を配信しております。今週は創立記念礼拝です。今年、東洋英和女学院は創立137年(大学は32年)をむかえました。この記念すべき礼拝に、池田明史学長が大学全体に向けて短文を寄せてくださいました。学長の許可を得て、礼拝週報より転載いたします。


「逃げ場(アジール)」としての東洋英和

カナダ・メソジスト教会の婦人伝道会社から派遣された M.J.カートメルが、横浜に上陸したのは 1882 年(明治 15 年)末のことだった。欧米に倣って「文明開化」を掲げた日本は、1873 年(明治 6 年)に太政官布告によって「切支丹禁制の高札」を事実上撤去し、キリスト教は黙認されることとなっていた。しかし、当時の行政当局に提出された東洋英和女学校の「設置願」においては、本来の目的であったはずのキリスト教教育については明文で示されてはいない。これは、禁制高札が撤去されたものの、日本人に対するキリスト教信仰の自由は必ずしも公認されていたわけではなく、公然と布教活動を行うのは 憚られたという事情があったからだと思われる。学校設置の目的としてあからさまにキリスト教教育を掲げることは差し控えねばならなかったわけである。

明治維新のほんの数年前まで、「尊王攘夷」を掲げた神国思想が跋扈していた日本である。まかり間違えば、現在のアフガニスタンのように狂信的な排外主義に支配されていたとしても不思議ではなかった。タリバンの政策がそうであるように、キリスト教はもとより、女子に対する高等教育の必要など微塵も認められない社会が現出されていたかも知れないのである。その意味では、われわれは幸運であった。それでも、明治国家は最初から宗教や教育の自由を嬉々として受け容れたわけではなかった。「脱亜入欧」を合言葉に、国家を挙げて急速な近代化(すなわち「西洋化」)を目指していた当時の明治政府にとっては、欧米の知識や技術を導入する対価としてキリスト教などの宗教や思想をやむなく容認し、女子高等教育機関の創設も渋々許容したというのが実情だったろう。それは結果として、富国強兵に邁進する明治日本のエートスに対する「逃げ場(アジール)」の機能を果たした。

このように考えれば、わが国においてキリスト教に根差した女子高等教育機関の嚆矢として創立された東洋英和女学院の存在意義が、より明らかになる。国家が期待したのは、「欧米の知識や技術を身に付けた」即物的に有為な女性像であった。しかし、草創期の英和に集った生徒たちを惹き付けたのは、英語や古典やキリスト教といった学びを通じて、自分たちの社会とは価値観を異にする「外部」の存在を知ることができたからにほかならなかったのである。

学長 池田 明史

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